認知症は、人が人間として生きる意味を見出せるチャンス

◆ほめる事は、子供だけに必要な事ではない

認知症とは、かつては痴呆症と呼ばれていた病気の事ですが、どんな病
名であっても人間だという事は変わりありません。では、色々な病気が
ある中で、認知症の人は何か特別なのでしょうか。

そもそも認知症とは、色々な事を認知する、つまり理解或いは解釈する
機能が衰えていく病気です。でも、年齢を重ねていけば誰だって、特に
自分に馴染みがない事に対する理解力は低下する一方です。もちろん、
訓練をすればその低下をある程度は予防できるでしょう。とは言え、現
代の医学では、それを完全に防ぐ事はまだ出来ていません。

それなのに、高齢になったからと言って「あれが出来ない」「これも出
来ない」と出来ない事に○(丸)をつけられていく・・・。この様な認
知症の考え方が進んでしまえば、特別な病気だと勘違いされてしまう事
も当然なのかもしれません。

せっかくですから、○をつけるのを出来ない事ではなくて出来る事にし
てみましょう。認知症の方は短期記憶、つまり比較的新しい事を覚えて
いる事が難しい場合が多いので、子供の頃から長年親しんできたもの、
例えば国語や算数の簡単な問題を解く事などはまだまだ出来る方が多く
いらっしゃいます。

国語では、平仮名を読むレベルから簡単な古文まで出来る方もいらっし
ゃいますし、算数は、掛け算や割り算まで出来る方もいます。これを
「学習療法」と呼び、認知症の療法の一つと言われています。

ですから、学習療法を行っている施設のことを「おとなの学校」として
呼ぶ事もあります。ただし、この学習というのはあくまできっかけであ
って、勉強をする事が本来の目的なのではありません。

この問題に、バツはつけません。全部に○をつけます。もちろん100
点が取れます。プリントに、大きな赤い○がたくさんあって100点。
誰もが嬉しいですよね。でも、間違っていてもなんでも○を点ければ良
いのか、或いは誰でも100点が取れる様に物凄く簡単な問題ばかりで
良いのか、と言えばそうではありません。

認知症の方であっても、どこかしら感じるものはありますから、なんで
もかんでも100点にすれば良いという事ではないのです。ここが難し
いところかもしれません。

では、勉強をする事が目的でもなくて、100点が取れる事も目的でも
ないとすれば、一体何が目的なのでしょうか。

まず一つの目的は、大きく○をつける事が一つ。もう一つは、この問題
集に取り組む事によって高齢者とスタッフの間に自然と共有感が生まれ、
なんとか一つでも多く○になろうと前向きな姿勢となり、それが積極的
なコミュニケーションを生み出す事になる事です。

目的を勉強する事だととらえてしまうと、高齢者に子供だましの問題や
テストをさせて、もしも簡単な問題が出来なければ余計に自尊心を奪っ
てしまう・・・、などと言った批判が出てくる事にもうなずけます。

しかし前述したように学習が目的ではありませんから、これを行う事に
よって小さな事であっても自分で出来た事の満足感・充実感を味わえら
れる事と、ほめられた事によって喜びを味わう事を促す事が出来るので
す。

認知症の方は、「記憶」自体は長続きしませんが、味わった感覚という
のは本能的に残っている場合があります。ですから、「これが自分にも
できた!」「ほめられた!」という「思い」が残ります。これが大切。

しかもこの思い、勉強での思いという事にも意味があります。と言うの
は、いくらほめられれば誰でも嬉しいとは言っても、例えば「オムツを
しなくて良くなって良かったですね」とほめられても・・・。いかがで
しょうか、あなただったら、嬉しいですか?本当は、オムツをしなくな
る事の方が、国語や算数の問題を解く事よりもずっと難しいのですけど
ね・・・。

介護の現場で「ほめる」という事はとても大切な事です。なぜなら、ほ
める事で心を動かす事ができるから。心を動かす事が出来れば、動かさ
れた高齢者も動かしたスタッフも、とても気持ちが良いものです。こう
して、負の循環ではなくてプラスの循環が生まれていきます。

実際、認知症の親を介護していて、子供である自分の事を、しかもいつ
も世話になっている子供の顔すら判らなくなってしまった姿と向き合う
と、覚悟をしていたとしても辛いものです。「こんなに一生懸命介護し
ているのに、なぜなんだろう?」と、怒りの感情まで湧きあがるかもし
れません。

こんな時に役立つ考え方が、「いや、自分の親はもっと出来る事がある
んじゃないだろうか」と希望を持てる事かもしれません。

◆「すべてを判っている」親に、家族にしか出来ない事をすれば良い

認知症は、未だにまだ謎が多い病気です。ですから、例え医者だとして
も、「認知症になれば何も判らなくなってしまう」とは断言できません。

多くの研究者の想いは、「認知症になっても、すべてが判っていると思
ってくださいね」と言いたいのが本音です。

だって、認知症になったからと言って人間じゃなくなるわけじゃないん
です。まだ、目の前の方は人間として精一杯生きようとしていて、それ
を介護している人だって自分の人生を一生懸命生きているのです。だと
したら、「何も判らないから希望はない」と思うよりも、「判っている
んだから、希望を捨てずに一緒に頑張る」と思いたいじゃないですか。

自分におきかえて考えてみましょう。あなたが何歳かによって違いはあ
りますが、人間は成長します。子供の頃、学生の頃、社会人になりたて
の頃、脂がのってきた頃、そして、還暦を迎え、年を重ねていく。この
時、成長に伴い変わることと言えば、外見や身体機能、経験や知識に基
づく考え方や理性などですが、奥底にある「核」のような自分の真髄は
変わりませんよね。

これは、80歳になり認知症になったとしても、同じ事。確かに、記憶
が続かなくなる事で時間的な経過は判らなくなり、先の事も判らなくな
ってしまうため、自分が今まで生きてきた世界観でしか生きられません
から、いわゆる小さな箱庭の様な中に生きる事になるかもしれませんが、
それでも、「核」は変わらないのです。

この「核」が「自分」ですよね。そして、自分は人間です。ですから、
認知症になったとしても、人格は一般の人と変わらないのです。今とな
っては驚く方もいらっしゃるかもしれませんが、昔は、認知症になれば
人格が崩壊してしまう、と言われていた頃が実際にあったのです。

昔と言えば、一昔前の認知症の施設入所者に対する考え方として、自宅
や家族から離れ、昔を思い出さずに、出来る限り今いるところで穏やか
に暮らしてもらう・・・、という考えがありました。

と言うのも実際のところ、施設に入所された認知症の方は、家族が面会
にみえると家に帰りたくなる願望が強くなります。でも帰れる訳ではな
いので、結局のところ本人が可哀想なのではないか、と考えていたので
す。

個人差はありますが、家族の方が顔を出さなくなると、大体認知症の方
は2週間ぐらいで家族の事を忘れてしまいます。家族が来ても「家に帰
る」と言いださないので、見た目的には施設の暮らしに慣れてきている
様な感じを受けるかもしれません。

しかし、実際にそこで目にするのは、今まで自分が接してきたのとは違
う親の姿です。こうなると、認知症により今まで出来ていた事が出来な
くなっている姿を見て、まるで人間ではないかの様に、全く別の生き物
になってしまったのではないかの様に感じてしまう事があるのです。

大抵の家族はこの時、「なんでこんな風になってしまったんだろう。施
設に預けてしまった事によって、自分の親なのに人間らしくなくなって
しまった・・・」と、思い悩んでしまいます。こうなると、負の連鎖に
陥っていってしまうのです。

でも、認知症の方でも「核」は残っていますから、記憶がなくても、子
供や孫の顔が判らなくなっても、つくり話をしたり、本当は無い物が見
えているかの様な話をするようになっても、「だからと言って、これが
自分の親なんだ」と開き直ってください。

一人の人間として「核」を大切に出来るのは、実は介護スタッフではな
く、家族しかいません。介護スタッフは、お風呂や食事、トイレなどの
技術的な事の専門家です。当然スタッフも精神的に支えになる事を努力
しようとしますが、それでも、一緒に笑って、一緒に泣いて、抱きしめ
てあげて、横に座り手をさすってあげて、或いはただ横に座って、そし
て「お母さん」「お父さん」と呼びかける事は、家族にしか出来ないの
です。

プロに任せる事は一切任せてしまい、あなたには、あなたにしか出来な
い事をやりましょう。そう、自分の親は、まだ終わったわけではありま
せん。新しく人生をやり始めているのです。こう家族が言い続ける事が
できれば、それだけで親は大丈夫です。そして、こう言い続ける事によ
って、あなた自身が生まれてきた事に対して確信を持って意義づけが出
来るでしょう。

認知症の方の介護をする事は、介護をされる側にとってもする方にとっ
ても、非常に大きな勉強になる事でしょう。それは人間が人間として最
期まで生きるにはどうすれば良いのか、というテーマなのですから、人
生の中で最も大切な勉強の一つとなるでしょう。

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